プロフィール

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1985年9月のドラえもんと同じ日に127年早く静岡県に生まれました。

血液型はO型です。

3人兄弟の一番下で姉と兄がいます。

 

趣味はカメラ、スマートフォン(複数台所有)です。
キャラクターではディズニーシーのダッフィー、トムとジェリー、あらいぐまラスカルが好きです。

幼少期

父の仕事はカメラマンで幼少期からの

写真が多いでしょうと言われることも多いのですが、
末っ子なので姉と兄と比べると写真は少なめです。

 

母親にべったりの甘えん坊でした。

幼稚園に通うようになっても

年少のころは何度か母から離れたくなくて

幼稚園を休むこともありました。

 

幼少期は2軒先隣に同級生の幼なじみがいたので

遊び相手には困りませんでした。

 

兄弟でも末っ子で体は小さいし喧嘩をしても負ける、

幼なじみより自転車に乗れるようになるのも後で、

同じ習い事に通って賞をもらっても下の賞で

いつも自分はダメだと思うようになりました。

 

 

物心ついたころから食べ物の好き嫌いが多かったです。

小さいころは外食ではお子様ランチ

(でも全部は食べられない)、

お菓子、カップラーメンばかり

食べていたような気がします。

 

生もの、野菜、マヨネーズやソースなどの調味料、

その他よくわからないものは口に入れるのも嫌で

食べませんでした。

 

幼稚園の給食も完食したことがありませんでした。

 

小学校

小学校に入学するとお弁当の日はほとんどなく、給食になります。

 

1、2年生の担任の先生は残すということを最初は許してくれましたが、

少しでもいいからすべてのメニューを食べなければいけませんでした。

 

今でも食べ物の好き嫌いは多いですが、

幼稚園までの食べられるものが限られていたころと比べると

食べれないものはかなり減りましたし鍛えられました。

 

苦手だったトマトや生野菜は食べられるようになります。

ソースや調味料も平気になりました。

元々食わず嫌いでもありましたが、赤飯や漬物は克服できませんでした。

 

3年生以降は残しても先生に怒られることはありませんでした。

3年生でいじめ

小学校中学年になると幼なじみとは別々のクラスになります。

 

小学校3年生も終わりごろクラスメイトの1人から一緒に帰ろうと言われました。

 

特に断る理由もなかったので「うん」と答えて一緒に帰ることになりました。

 

帰り道に後ろから私のランドセルを両手で押さえて、

画用紙を丸めたのでバシバシ叩いて

クラスメートの不満を私にぶちまけてきました。

 

最後別れる場所でも無理矢理自分の家の近くまで

連れていかれそうになりましたが、

無言で抵抗して自分の家の方角へ。

 

「明日先生に言うから!」

と言われましたが何事もなかったです。

 

母へ泣きながら話をして先生へ手紙を書いてくれましたが、

先が怖いので出さずに終わりました。

 

その後同じようなことはありませんでしたが、

たまに嫌味やからかいが時々ありましたが

黙って無視を貫き通しました。

 

反論するのも怖くて何も言えなかったともいえます。

 

私の通っていた小学校は2年ごとのクラス替えで

クラス替えもなく4年生になってから

幼なじみが担任の先生へ話をしてくれて、少し話をしました。

 

その後特に何もありませんでしたが2年同じクラスは長かったです。

 

学校に通うのが嫌になるということはありませんでしたが、

毎日早く家に帰りたかったです。

5年生になってもまたいじめ

5年生でいじめっ子とは別のクラスになりました。

クラス替えの初日からまた嫌なことが起きます。

 

今度は男子。

私が男みたいで気持ち悪い、毛深いと笑ってからかいます。

 

クラス内にも他のクラスの男子を巻き込んでゲラゲラ笑って見てきます。

同じクラスの女子も一部の人は一緒に大笑い。

 

そのせいか自分から話しかけることが怖くなりました。

 

女子にも話しかけるのが面倒になり給食をひとりで食べたこともあります。

何かを言われるよりは気が楽でした。

 

担任の先生が母との2者面談でひとりでいることを言ったそうで、

母からも言われました。

 

友達と仲良くするようにと言われても

「うん」と言われましたが本音は嫌でした。

 

何かをするときに一緒の友達も欲しいと思うけど、

ひとりのほうが気をつかわなくてすむからです。

 

不登校にはなりませんでしたが、学校へ行くのは嫌でしたので

授業が終われば急いで家に帰ってゲームをしていました。

祖父母との同居生活が始まる

私が小学5年生の6月に私たち家族の生活は一変します。

母方の祖母が脳梗塞で倒れ入院します。

 

祖父は1年ほど前から認知症が酷くなっていたのでほぼ毎日日中母がお世話に行っていました。

 

同じ市内ではありましたが近所ではないので

祖母が入院となってしまうと祖父のお世話をする人がいないので

まず祖父との同居生活から始まります。

 

認知症でうまく意思疎通もほぼできない状態でした。

まずは家に帰ろうとする祖父の見張りをしました。

 

私たち家族が住んでいる家は母方の親のものでした。

相続した母の兄のものでもあります。

住んでいるので祖父母の面倒を見なくてはいけないのです。

 

祖父は私が中学2年の3月に亡くなりますが、

祖母はこの先15年母が介護することになります。

中学校

中学も他の小学校からの人がいましたが、

私立中学に進学したメンバーを除いて9割が同じ中学校でした。

 

運動は大の苦手ですがソフトテニス部に入部します。

 

バドミントンと迷って、ソフトテニスは外で日焼けはしますが

雨だと練習が休みになるのと、ラケットがバドミントンよりカッコいいから

という理由でソフトテニスにしました。

 

男子、女子と別れた部でもあるので

ここで初めて女だけの世界は嫌だという経験もします。

 

一人の女子をみんなで嫌います。

2年生になってからさらにひどくなりました。

 

練習の予定すら部長の勝手で日程が変更になっていることもあったのに、

連絡もせず来ないことにも悪口を言っていました。

 

私も知らされてないこともありましたが、

連絡をくれた子がいたので助かりました。

 

上手い子たちは嫌いだから、

一緒にやりたくないからとワガママでやりません。

 

下手くそな私といつも一緒にやることにもなります。

 

自分たちが上手だから一緒にやらなくてもいいの?と思うこともあり、

一度他の子と一緒に顧問の先生にも話をしましたが

関係が良くなることはありました。

 

番手が上の子たちは私たち下手くそ組がやる気がないことに

不満なようで嫌味を言われることもありましたが、

お互い思うことはありました。

 

最後は早く引退したかったです。

チームとしても強いチームにはなりませんでした。

中3でまたいじめ

中学3年になりまたいじめ。

初めて同じクラスになる男子が発端です。

 

同じ塾で特に会話もしたこともありませんでしたが、

私たちグループのことを「不細工」「気持ち悪い」、

「近寄ると腐る」と声をだして言います。

 

他のクラスの女子のこともかなり言っていたので

私だけではありませんでしたが。

クラス男子は真似していいます。

 

ここも黙って貫きました。

 

何も言えないとまで言っていましたが、

言っている内容もあまりにも幼稚すぎました。

でも言われて毎日苦痛でした。

 

まったく話をしてくれないとか、

一緒にいてくれる友達はいたので

不登校になることはありませんでしたが

早く卒業したかったです。

 

行きたかった高校もいじめ男子がいるので私立一本にしました。

 

親にもいじめられて嫌だと言うことは黙っていました。

 

嫌いな別の男子がいているから一緒は嫌だと伝えて

私の選択を受け入れてくれました。

中学の卒業式の翌日に

中学2年生の翌日に自転車で出かけていて交通事故に遭います。

 

車とぶつかり自転車ごと吹き飛ばされましたが、

無事起き上がることはできました。

 

その後病院に行き利き腕の左肩ひび骨折でした。

ギプスはつけられる場所ではなかったので三角巾で動かさないよう安静生活でした。

 

2週間もしないうちに高校の入学式。

高校までは約7キロの自転車通学の予定でしたが自転車に乗ることができません。

 

事故の相手の保険会社から費用負担がありタクシー通学となります。

 

朝は予約すればいいのでよかったのですが、

学校で他の人に見られるのが嫌で帰りは歩いて帰りました。

 

一度だけ行きも帰りも歩いて行きましたがさすがに授業中もヘトヘトなので

行きだけにしました。

 

1時間半の道のりで慣れない革靴で靴ずれもできましたが

ハードな運動でもなかったのできつくはありませんでした。

 

母からはケガが悪化したら困ると心配されましたが、

約1カ月ほど歩いて帰りました。

 

同じ学校からのメンバーもいなくて環境は変わりましたが、

自分から話かけるのはまだ怖くて勇気のある行動はできませんでした。

 

クラスメートとも一部メンバーとしか話をすることができませんでした。

高2からは進学クラス

私立高校に進学して公立に比べると親には負担をかけます。

 

学校は勉強をするところなので授業はちゃんと受けかったのですが、

普通科の普通進学クラスは授業中遊ぶメンバーが一部います。

 

席も自由ではないので間にいるとうるさいのと気が散ります。

まだ居眠りは周りへ迷惑をかけることはないのでいいのですが。

 

三者面談で先生に話をすると大学進学を目指しているわけではないですが、

進学コースを勧められてクラスも減る中進学コースに入れました。

 

ちょうどそのころ父の会社の業績があまりよくなく、

給料が支払われない月もありました。

 

私が高校入学と同時に姉は就職、兄は進学(新聞奨学生)で他県へ出ていきましたが、

うらやましかったです。

 

祖母の介護やらお金がないと言われること、親の顔色をうかがうのに疲れました。

 

親の収入がほぼなかったことも

今思えばラッキーなタイミングだったようで

奨学金を借りることができ他県の専門学校へ進学します。

地元を離れ横浜へ、2年間の寮生活

横浜の情報処理専門学校に進学します。

 

新幹線通勤も考えましたが、定期券は10万ギリギリ行かない金額でした。

 

学校の寮があり、費用もそれほど高くなく、

空室もあるので入れることになりました。

同じ専門学校系列の寮です。

 

部屋は個室で風呂や食堂(自炊)などは共用スペースでした。

 

同じ学校の方はいなかったけど、医療系・ファッション系・デザイン系などの

学校に行く方たちでした。

先輩もいましたが上下関係も厳しくなく、楽しい寮生活でした。

 

このときに印象に残っているのが1年生の8月の終わりに来た寮母さん。

突然前の寮母さんが辞めるといって出て行ってしまい、

次の方までの交代できた寮母さんで

4カ月もありませんでしたが、ネガティブで後ろ向きの私の背中を押してくれた方です。

 

といっても2カ月ほどはほとんど話すらしませんでした。

 

3カ月目から声をかけてくれるようになり少し話をするようになり、

秋の学園際ではお客さんが来ないと嘆いていた

私の学校へ1番に来てくれたことが

一番嬉しかったです。

 

後任が決まってからも残り少ない日の夜空き部屋に

上級生たちと集まるからおいでと

声をかけてくれて先輩ら数名と話をしたのも楽しかったです。

 

他の寮生の前では次の年の寮長は指名しないと言っていましたが、

本音では私を指名すると決めていたそうでこっそり聞きました。

 

仕切るのは4年制の学校に通う1年上の先輩1名にやらせればいいし、

あなたは隣で黙っていればいいからって(笑)

 

私が2年生になったころは寮の規則も変わったりので、

立候補をして寮長をやりました。

 

寮長の役割も特にはなく、たまにみんなを食堂に集めたり、

寮母さんの話を時々聞くぐらいでした。

内定になり入社前研修、しかし就職したくない…

「就職はみんなできるから大丈夫だよ」

専門学校の先生の言葉でしたが不安でした。

 

就職する時期としてはちょうど団塊世代の引退で次世代を育てるため

求人は増えていたようで恵まれていました。

 

5社ほど受けて不採用も連発しましたが、

相性の良い会社はあるので内定まではスムーズにいきました。

 

内定後からプログラムの研修が始まりました。

最初は授業でやっていた内容でもあったので簡単でしたが、

次第に難しく壁にぶち当たります。

 

今まで得意と思っていたプログラミングができない。

 

国家資格取得を目指していましたが、あと15点20点足りず

立て続けに不合格。

自信もなくなり本当に就職していいか不安にもなり、嫌にもなりました。

 

親にも学校の先生にも内定を取り消したいと話をします。

「困難は乗り越えなければいけない壁」

だと言われましたが当時の私にはまったく理解も納得もできませんでした。

 

「やってみないとわからない」

この言葉を受け入れてやってみようと思い、とりあえず入社はします。

毎日ヘトヘトの社会人1年目

システムエンジニア、プログラマになるために入社した

社会人1年目はヘトヘトの毎日でした。

 

まずは2カ月は自社でチームに分かれての研修。

週一回の3分間スピーチがありましたが、

人前で話すのが大の苦手な私は大嫌いでした。

 

すぐに極度の緊張はしてしまうし、

言葉も出てこないで沈黙になってしまうことも…

新入社員の中でも一番ダメな人だったと思います。

 

2カ月研修の最後の発表のプレゼンテーションは10分も話をします。

当日まで何度か練習、体が震えるほど緊張しましたが、

なんとか10分できました。

 

この時はまだ自分でも気づきませんでしたが、

いざとなればできる自分なのです。

 

2カ月の社内研修終了後は順次現場に配属でした。

自社勤務ではないので(特定派遣)現場に面接に行ってから

現場での実務がスタートしますがなかなか私の順番はやってきませんでした。

 

現場にいくまで2カ月自社で自習&電話番でした。

 

人前でのスピーチが苦手だし、電話もちろん苦手。

次第に出てくれる同期も現場に行きいなくなり、

いざ自分もやらなければいけない状態になりました。

取次だけでしたので、数をこなしていけば慣れていくものでした。

 

そしてもう1つこの期間にできたことは

プログラム言語のJavaの資格を取得できました。

 

苦手で理解できずに専門学校を卒業、研修ではJava言語を使用。

研修はできる同期に助けて引っ張ってもらいましたが、

少しずつわかるようになり資格試験の勉強も進むようになりました。

一発で無事に合格。

苦手を少し克服できました。

 

8月中旬にやっと携帯電話のテスターですが、現場に行くことができました。

この現場に行くのも最初は嫌でしたが、

実際に行ってみたら環境はとても恵まれていたと思います。

 

現場のルールも厳しくてよかったし、

最初の教育も一番丁寧にしてもらえました。

一緒に働くチームのメンバーさんもみなさん良い方でした。

いつでも辞めたい社会人2年目

9カ月ほどで現場の方針が変更になり人員削減となります。

 

社会人2年目の4月末で異動となりました。

「仕事ができないわけではないけど、若いメンバーは他の現場へ行ったほうがいい」

と言われ撤退となります。

 

異動と言われまた心のどこかでは「辞めたい」気持ちでいっぱいです。

 

専門学校卒業時から手を出していたネットビジネスにもまた手を出します。

オークションでそこそこ小銭稼ぎはしていましたが、

アフィリエイトでもっと稼ぎたい!

月50万、100万稼いで自慢して辞めてやりたい!

 

そう思いながら30万の高額教材にも手を出します。

稼いで取り戻すんだから、大丈夫ということで不安はありませんでした。

 

少しずつ進めましたが

「また今度やればいい」の先延ばしでなかなか行動できず。

結果は出ずに終わりました。

 

地味に更新していた携帯サイトで収益は5000円が何回か出ました。

今思えば行動、努力が全然足りないので結果はでないのです。

 

他教材にもいくつか手を出しました。

 

異動して新しい現場に行きましたが、

入った途端プロジェクトが中止となり2カ月でまた撤退。

 

1カ月は自社に戻りまた自習状態でした。

 

次はカーナビテスターの現場に行きます。

この現場もものすごく嫌で自ら異動を申し出て6カ月で撤退します。

 

次に行った現場はシステムエンジニア、プログラマとはかけ離れた現場ではありましたが、

1年半以上続けることができました。

社会人4年目のある日はやってきた

1年半以上続い最後の現場では最初の会社員生活で

一番働いた時期でもありました。

 

システムが無事に起動しているかの確認のため

朝7時から出勤の日もあったり、

遅くまでの処理作業があるので午後から出勤したり、

休みの日の当番もあったりで

シフト勤務を経験します。

 

残業も多く、ちょうどそのころリーマンショックもありましたが、

ニュースを確認している余裕もありませんでした。

 

リーマンショックから約1年後、現場都合で自社戻りとなります。

自社では受注業務の減少になり、新入社員や次の勤務先が決まらない社員は

休業扱いの自宅待機となります。

 

そして私も自宅待機となりました。

給料は6割、この先生活もできません。

そしてもうこの会社にいることがとにかく嫌で嫌でたまらなかったので退職しました。

退職…地元へ再び戻るけどもう雇われで働きたくない

24歳の若さと勢いで先を考えず退職をしました。

 

いくつかバイトの面接にも行きましたが不採用…

 

自信もなくし、もう雇われて働きたくない!

ヤフオクでの収入も少しありましたが、家賃を払うお金もありません。

 

家賃も何カ月か滞納、マンションも契約終了になり

地元に戻るのも嫌でしたが戻りました。

 

今思えば先を何も考えずワガママで退職、

家賃滞納で最後は家族に助けてもらい

迷惑をかけたクズでした。

 

地元に戻って手続きをしていなかった失業保険を貰いました。

あとはヤフオクで小銭稼ぎのほぼ引きこもり生活を22カ月していました。

祖母が亡くなり、引っ越しと人生再出発

2011年の5月に母が15年介護した祖母が亡くなります。

祖母が亡くなったと同時に

私たち家族はすぐに家を出ていくことを考えなければいけませんでした。

 

お通夜で両親は母の兄(叔父)から家賃の話をされます。

 

今までは祖母の面倒を見ている分の生活費と相殺で

それでも足りない分は両親が負担していました。

 

亡くなってから知ったことは両親は相続放棄されられていたということです。

小学5年生のとき祖母が倒れて、母の兄(叔父)が結婚する前に

父と母が書類書かされていた記憶がありました。

 

両親は兄弟関係悪化するぐらいなら遺産なんていらないという考えでした。

 

ただ15年介護して言って欲しかった言葉は

「ありがとう」、「大変だったね」だけなのです。

その言葉すらありませんでした。

 

亡くなってから3カ月もしないうちに

引っ越すことができました。

 

引っ越しをしてから母の兄(叔父)とはほぼ縁が切れている状態です。

そしてホテルへパートで入社

ホテルを選んだきっかけは

「昔から知っている同級生のお母さんに勧められたから」です。

ほかには平日休みができるから

電車通勤ができて不便ではない

といった動機です。

 

接客はほぼ未経験でしたが、抵抗はありませんでした。

 

22カ月も無職でしたが第三者のお母さんの言葉と、

最後は何カ月かヤフオクで20万近くは稼ぎましたが、

自力で稼ぎ続けるのは難しいことは実感して

まずはバイトでもしたほうがいいし、

この先投資で稼ぐにしても元金はある程度必要だし、

非正規でもいいからまず少しでも働いてという親の言葉もあり

やっと人生再出発することにしました。

 

採用面接では笑顔がないのが心配と思われたようですが、

「接客やってみて無理ならいいよ!あなたはパソコンのスキルがあるから裏での仕事もあるし」

「うちは絶対に正社員にしない」

とも言われましたが、ただ働きたいと伝え採用になりました。

お局に泣かされる日々…

入社前の面接から「うちの女性陣はきつい」との

お話はありましたが想像以上にきつかったです。

 

教わってもいないこと、知らないことで

いきなり注意されたり

嫌なことは突然押しつけられたり、

挨拶されても無視されたり、

レベルが低いと言われたりしました。

 

もちろんすべての発言がおかしい、

ダメということではないけど落ち込みます。

 

そんなに早く辞めてほしいのかなと思うこともありました。

絶対社員にしないと言われたはずが正社員に

採用時の支配人からは絶対に正社員にしないとも言われましたが、

入社半年ほどで状況は変わりました。

 

採用時の支配人は私が入社して1カ月で退職

(私が入る前に辞めることになっていた)、

1カ月後に異動してきた責任者からは半年ほどで

「今すぐというわけにはいかないけど、あなたには将来社員になってもらいたい」

と言われました。

 

お局に関して「どこにいっても同じようなことはある」

という別の先輩社員の言葉もあり、

「いつかは抜かしてやる」という想いもあり嫌な感情は持ちながらも

仕事は継続することにしました。

 

社員になりたいという強い想いはなかったけど、

社員になることでお局に勝てる、抜かしてやる

という目標にもなりました。

 

そして約4年ほどで予約や売上などを管理する

ホテルシステムの入れ替えとなり

主に作業をやるチャンスがやってきて

仕事が増えて社員へ契約変更となりました。

 

強く願ってはいませんでしたが、30歳を目前に

非正規から「会社員」にまたなることができて嬉しかったし、

1つの目標が達成できて自信となりました。

 

自分の職業が「フリーター」からまた「会社員」と

書けるようになったのも嬉しかったことです。

 

「会社員」を失う(辞める)のは簡単でしたが

再び取り戻すまで5年以上かかりました。

正社員から8年

社員になって8年いろいろなことがありました。

 

・自分の辞める騒動で一時離脱

・社員 VS パートの現場

・辞める口癖がなくなった

・長年の相棒上司の異動

・他施設からの異動組の受け入れ

・従業員への反撃

・上司との大喧嘩

 

なにもできなかった時給850円パートの私が

いつの間にか長い者代表になっていました。

 

フロント業務だけではなく、宿泊システムの設定管理や

売上管理、ネット販売なども行ってきました。

 

私のこれまでの人生で一番長く続いたことはホテルでの仕事です。

子どものころから何をやっても続かない、

他の人よりも劣っているとずっと思って生きてきました。

 

少しずつ努力をしていけば人は変われることができるし、

初心者からプロになることができるんです。

 

嫌なこともたくさんありましたが、良いこともたくさんありました。

 

宿泊施設に10年以上勤務して

ホテルの宿泊は簡単なようで難しいこともあります。

 

何度自信をなくしたときも落ち込んだときも

お客様からの「ありがとう」の言葉で続けてこられました。

 

そして1人でも多くの方に満足して宿泊をしていただきたいです。

いつもとは違う場所に出掛けての宿泊は人生の思い出をつくることにもなります。

 

私の経験が少しでも役に立てるよう発信をしていきます。

 

 

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